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2013/09/07
在年度:第68回大会-第71回大会
1年:出雲5区9位、箱根6区15位
2年:全日本5区4位、箱根5区7位
3年:箱根5区6位
4年:箱根5区5位山下りで大ブレーキ 一転、2度往路優勝のゴールテープを切る
もしかすると見たことがある方は結構いるのではないだろうか。箱根駅伝ではCMが入る直前、その地点での回想シーンが流れるが、6区の際に這うようにしながら襷を渡す早大の選手の時がある。多分小林選手だ。1年時に山下りに抜擢されたのだが、足の裏の皮が破れてああいう恰好となってしまったのだ。箱根史に残る壮絶な襷リレーだ。
一転、2年生からは3年連続で5区山登りに挑み、3回とも襷をもらった順位をキープ。そして2年と4年時はトップで襷をもらい、往路優勝のゴールテープを切る。結構驚いた当時の早大ファンは多かったのではないだろうか(もっとも、69回大会から見始めた僕は、だいぶあとになって68回大会の事を知って別の意味で驚いた)往路優勝した時は、どちらも山梨学院からの猛追を受けていたが、振り切ってのもの。5区の終盤は下りだが、そこで稼いでいた4年時は1分39秒の貯金をもらって走り出したが、大平台までに一気に48秒差まで詰められて戦々恐々としたものだ。しかし、下りで一気に突き放し、逆に数秒貯金しての往路優勝だった。山梨学院が逆転にかかって前半ぶっとばしていたのはあるが、やはり下りは得意だったのだろう(ちなみにこの時、3区4区5区と3年連続で同姓が並ぶという珍現象も起きている)。卒業後も市民ランナーでちらほら名前を見た。富士登山競走では00年01年は優勝。03年の東京国際マラソンでは20位に食い込むなどの活躍をみせた。当時行われていた富士登山駅伝でも出走している。現在はランニングクラブ「リスタート」でコーチの一人として名前がある。
在年度:第70回-第73回
1年:
2年:全日本7区2位、箱根7区3位
3年:箱根4区8位
4年:出雲5区1位、全日本2区4位、箱根2区4位一般で政経学部、端正なマスクに綺麗なフォーム 最後は箱根2区
非常に堅実で綺麗な走りだったのが印象に残っている。スポ推組のような力強さはない、しかし泥臭さという事も見た目から感じられない。イケメンの風貌もそれを思わせたのだろうか。しかし、5千15分台で政治経済学部に一般入試で入り、2年時の全日本駅伝でデビューには並々ならぬ努力があったはずだ。その全日本は結構鮮烈なデビューだった。早大と山学のデットヒートが繰り広げられたが、ある意味この勝負に決着をつけたのは彼だった。7区終盤に山学を突き放して10秒リード。アンカーの渡辺選手には大きな余裕をもたらしたのだ。面白い選手が出てきたものだと感じた。逆に、初の主要区間となった箱根4区は壁に当たった感じだ。1位で襷をもらってキープはしたものの区間8位。2分以上あった2位との差を30秒ほどにまで詰められてしまった(しかも、山学と神大のダブル棄権によりほとんど中継がそっちにいって映らずじまい)。この出来事が、藤井選手を一層強くさせた。最上級生になり、インカレハーフでも入賞に顔を出すようになり、強さも身についていきた。出雲駅伝では初の区間賞で優勝に貢献。全日本駅伝ではまさかの1区19位での襷リレーも冷静に6人抜きの区間4位。箱根では華の2区だった。過去4年花田・渡辺選手らスーパースターが走ってきたこの区間を叩き上げの選手が走る事はやや予想外だった。レースは1区の好走でトップ中継。ただスピード不足か後続のランナーに追いつかれていってしまう。73回は今年の箱根を思わせるような強風が吹き荒れていた大会。誰もひっぱりたがらず集団に。最終的に6人になるトップ集団の一番後ろでじっと耐える。だが20㎞過ぎて集団が崩れ、後ろの方に下がってしまう。ここまでかと思いきや、落ちてきたランナーを一人ずつ交わしていく粘りを見せ、最終的に3位にまで順位をあげる力走をみせた。周りに惑わされることなく、しっかりと自分の力を出し切った。引退し、09年に台湾・台北で市民ランナーとしてハーフマラソンに出ていた藤井選手。一般入試で早大競走部を叩いて、華の2区を走った最後のランナーとなっている。
在年度:第74回-第77回
3年:予選73位
4年:全日本8区8位、箱根10区2位
1万持ちタイムが最も遅かった男 シード獲得へ魂の走り
5千14分54秒、1万31分07秒。これが鈴木選手が最初で最後の箱根路に挑んだ際の持ちタイムである。とりわけ1万は第77回箱根駅伝出走者150人の中で最も遅かった。任された区間はアンカー。チームは苦しい戦いを強いられ9区終了時点でシード権(当時9位以内)とは1分40秒差の総合12位。一見、きつそうに見えたが、彼は早大が誇る最終秘密兵器だった。
無名の存在だったが、コツコツ練習を積みロードで力を発揮するようになっていたのだ。3年生の時に箱根予選出走し、62分強のタイムを残すなど力を蓄える。初の大学駅伝となった4年生の全日本アンカーで2人抜く快走。確かな実力を示した。そして先の箱根路となる。復路一斉スタートの影響で見た目と実際の順位が異なるが、すぐ前にいた拓大に追いつき
区間3番~5番のハイペースで引っ張っていく。しかし、運が悪いのは総合9位にいたのが大東大の実力者真名子選手。さすがに区間賞のペースで突っ走っていく。7位8位のチームは4分近く前だった。
それでも何があるか分からない、鈴木選手は飛ばしていく。御成門までに拓大を振り切ると、20㎞を超えてから日体大・日大を交わす間もなく引き離す。ゴール直前にはアクシデントでふらふらになっていた山学大を抜き去る。見た目順位を8位に。復路順位は5位に、個人タイムは区間2位ながらも区間新記録。残り1㎞地点で一時区間賞ペースになっていたという。この走りに一瞬大逆転でのシード権獲得かという雰囲気が漂ったが、無情にも総合10位、9位のチームは30秒の差だった。区間新でもシードに届かずというのは高岡選手が有名だが、実は4年前にこの鈴木選手も遭っていたのだ。最も、なんとなく次の年の総合3位の躍進に繋がった気がする。基本的に早大はこの時期苦しかったが、78回はこの大会の悔しさを活かしている気もする。早大はスーパースターがトップを独走する姿が思い浮かぶが、シード権付近でたたき上げの選手が魂の走りをするのも早大の姿である。
Author:hakonankit
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