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思い出に残る選手【早稲田大学-一般入試・後編-】

続きです
 

後藤信二

在年度:第76回-第79回
1年:箱根10区8位
2年:箱根9区7位
3年:予選15位、全日本8区13位、箱根9区4位
4年:出雲4区4位、全日本8区7位、箱根9区9位


長い距離で急成長 淡々と走るスタイルから闘志を剥きだしにする走りへ
 第76回箱根駅伝復路当日のエントリー変更に驚いた。10区に、その年度の箱根予選及び全日本アンカーを走った当時3年の久場選手に代わり、無名の1年生後藤選手が入った。2年ぶりのシード権目前の所でどんな走りになるか不安になった。序盤は区間最下位ペースで嫌な感じがしていたが、徐々にペースアップ。区間8位で飄々と走り切ったのだ。

 元々そんなに陸上熱があったわけではない。同世代の陸上選手もそんなに知らなかった。それが高校3年生の時に、当時早大コーチだった遠藤氏に直接声をかけられたのが転機になった。心を打たれ、一般入試で早大に合格。箱根駅伝に出場するのが目標だったが、1年後にもう達成したのだ。

 ここから更なる急成長。2年生の時は11月の府中ハーフで63分台をマーク、箱根で主要区間の9区を担い区間7位の成績、3年度の関東インカレハーフは3位で表彰台に立った。初登場となった全日本は、箱根予選の直後ということもあって失敗したが、箱根本戦では再び9区に登場し、区間4位。襷をもらった直後に100m後ろにいた大東大の選手を終盤に突き放すクレバーな走りを見せた。理工学部で1人で練習する事が多かった後藤選手ならではの走りだ。

 4年生の前半は関カレハーフで入賞に届かない不本意な走りだったが、これに奮起したのか夏を超えて違う姿を見せた。苦手なスピードもつけ、初登場となった出雲駅伝。7位で襷を貰うと追いついてきた山学大についていき、5位争いに浮上。5校程での争いだったが、残り1㎞地点で苦しそうに首を振りながら集団の一番後ろへ。厳しいかと思われたが、中継所では5位にあがった山学大に並びかけるように中継した。この姿に驚いた。

 全日本では序盤から中大とシード権を挟んでガップリ四つ。残り2㎞地点で中大のスパートに苦しそうにしながら3m程後退。次にカメラが回ったのがゴールシーンだったが、いつの間にか突き放していた。ガッツが身についていたのだ。箱根直前号の紹介でも3年時の「いたって平凡なランナー」から4年時「闘志をむきだしにする走り」に変わった。最後の箱根でどんな走りを披露するか楽しみだった。

 惜しむらくは、最後の箱根では気合が空回りしてしまったことだ。シードラインから3分ビハインドがあり、すぐ前にいた選手に追いつけずに焦った事。それと雪の降る寒さにもやられたらしい。画面ではかなり早い段階からユニフォーム姿で中継ラインに立っていた。少なからず影響したかもしれない。その中でも区間9位と意地のレースを見せたのは後藤選手らしい安定感だった。その後、大学院に進学、最近では弁理士の資格も取得している。
 

 

高橋耕

在年度:第76回-第79回
1年:
2年:
3年:予選190位
4年:箱根7区19位


『WILD組』初代管理人 最初で最後の箱根はホロ苦に
 早稲田大には公式HPの他、長距離部員自身が運営しているブログ日記があります(旧:http://www.geocities.jp/teamwatanabeinwaseda/、現:http://blog.livedoor.jp/wildkumicho/)。もう11年以上続いています。管理人は9代目(組長に名前が変わってからは6代目)で、今や議長や係長など結構大がかりな組織(?)となっています。ところで6代目ということは当然初代がいるわけなのですが、その初代管理人が79回大会7区を走られた高橋耕選手なのです。

 2002年春(僕がちょうどインターネット始めたころですねw)に「早稲田大学競走部広報課」としてスタートしました。勿論、この時は個人名は非公開だったのですが、79回大会の放送中に突如紹介されたのです。7区の序盤を走る高橋選手にバイクカメラが横につき、そのHPについて触れられていました。そして自分のような無名の選手が走る姿をみて、今の高校生も勇気を持ってほしいと。

 大学中盤まで主要大会への出場はほとんどなかった高橋選手。3年生の箱根予選のメンバーに選ばれましたが、力にはなれませんでした。4年生の秋に5千ながら日体大記録会で組トップで自己ベストを更新。結構2位を引き離す独走でした。そこから力をつけ、メンバー入り。7区エントリーの空山選手の回避で、前日に出番が回りましたが、準備自体はしっかりできていて、密かに高めの設定タイムを組んでいたそうです。

 しかし、襷を貰う時にアクシデント。襷を落としてしまいました。さっと拾って走り出したものの嫌な予感がしました。これが原因かどうか分かりませんが、入りのペースを間違えてリズムを掴めず、走り出した時にシードのボーダーだった10位の位置を徐々にダウン。区間19位、5人に交わされる苦しい走りとなってしまいました。練習通りいかないのもまた箱根の難しさなのかもしれません。最も、早大の豊富な情報発信の礎にもなった選手なのは確か(11年以上続くとは本人も思われなかったのでは??)。いい走りとはいきませんでしたが、敢えての紹介です。
 

 

猪俣英希

在年度:第84回-第87回
1年:
2年:
3年:
4年:全日本6区2位、箱根5区9位


入学時5千15分30秒台の選手が優勝メンバーに 怪物迫る中、挑んだ代打の山登り
 出来るだけ85回大会以前にしようと思ってたのですが、以前の優勝メンバーを入れたのに最近の優勝メンバーを入れないわけにもいかないなとも感じましたので。

 本当に固唾を飲んで見守った80分間だった。3冠を達成するのに意識しないわけにはいかない東洋・柏原選手の存在。出雲&全日本で区間賞を獲得し、山登りに決まっていた佐々木選手が1週間前にダウン。急遽、任されたのは高校時代実績皆無だった4年生の猪俣選手。タイプ的に失速はないだろうと思われたが、柏原選手が激しく追い上げる中、どういうことになるか…。

 「駅伝では力2割増しになる」―――猪俣選手の言葉だが、高校時代から確かにあったようだ。高校3年間のトラックのベストは15分35秒だが、1年時に駅伝の5㎞区間で15分06秒で走っているのだ。箱根駅伝が見える成績ではなかったが、一つ自信となったのは確かかもしれない。

 大学に入ってからは2年生あたりから一気に力をつけはじめ上尾ハーフで64分台を出していた。3年生は足踏みしたものの、4年生になって1万29分台に、そして関カレハーフで8位入賞を果たし、主要大会で結果が出る程までに成長を遂げた。駅伝で秘密兵器になりうるのではと噂されはじめた。

 そして全日本でついに駅伝デビュー。10秒後ろからは、東洋大の主力で直前に1万28分台を出して波に乗っていた田中選手が追いかけてくる難しい展開だった。最初の3㎞を8分42秒と中々の突っ込みを見せて差をキープ、しかし中盤じわじわと差がつまり5秒切る場面もあった。その中でも焦ることなく安定したフォームを刻み続ける。すると終盤差が広がり、逆に貯金を作ったのだ。これで流れに乗ったチームは2冠目を達成。同郷で高校時代から知っていた東洋大・酒井監督は「お前のような選手が出てきてほしくないんだ」と敵将ならではの賛辞を送った。

 迎えた箱根路。元々9区の予定で5区補欠という位置づけだった。12月の頭に5区は考えなくていいと言われ9区の準備に専念していた。ところが1週間前に状況が一転。ぶっつけで山登りをすることになったのだ。何とか4区までに貯金をと一丸となったチームはそれまでに2分56秒の貯金を作ってきていた。襷を受けて黙々と登っていくが、やはりあっという間に差はつまり、最高点までに逆に37秒のビハインドとなった。

 総合優勝に向けてこれ以上は開くと不味い状況の中、猪俣選手の逆襲が始まった。下りに入って今度は差が詰まり始める。実況では猪俣選手は「下りが得意」と盛んにあったが、本人の中では苦手意識があったらしい。それでも、「2割増し」は効いた。6区に向けて襷を繋げなければならない、その熱い想いが27秒差にまで押し戻したのだと思う。間違いなく復路の逆転優勝に繋がった。

 引退し、一般企業で取引部門で忙しく働いているが、それでもいまだに特集されることがあるのはそれだけ多くの人々に感動を与えたからだろう。その特集の影響からか、多くの大学がスポ推でほとんど選手を獲得する中、早大競走部への一般入試での入部は逆に増えている。独特なチーム構成となっている早大競走部を応援し続けたいと思います。

 
 
選抜も早くまとめていきます

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